三五館シンシャ

ラストピース

倒産する出版社に就職する方法・第33回

 

9月5日午後4時、東京駅八重洲口のルノアール。そこに出ずるは鬼か蛇か。

正体を知る方法はたったひとつ、現場に行ってみることだけです。

覚悟を決めた私は、印刷立会いの際に抜き取ってきた数枚の印刷済み本文を持参して指定の場所に向かいます。

もし長澤氏が本文の色を見て、気に入らないと言い出したら……。

午前中から動き出した印刷機はすでに本文すべてを刷り終えてしまったはずです。悪い想像はやめることにしましょう。

ちょうど東京に滞在していた共著者・藤原ひろのぶ氏も打ち合わせに駆けつけることになりました。

約束の4時ちょうど。三人が顔を揃えた途端、挨拶もそこそこに長澤氏が直截に切り出します。

 

「色、どうだった?」

 

東京に来た目的は、やはり私をいたわるためではなく、本文の色を気にかけてのことでした。

こうなったら四の五の講釈を垂れても仕方ありません。YESかNOか、現物を見てもらうのが一番手っ取り早い方法です。

私は無言のまま、喫茶店の机に本文の刷り出しを広げました。

長澤氏も無言のまま覗き込みます。

 

……。

 

 

 

「ええんちゃうの?」

 

隣で眺めていた藤原氏がつぶやきます。

思わぬ援軍の登場です。

明らかに色味がおかしい場合は別にして、今回のような微妙な色加減の判断には、見る側の心理状態や第三者の意見などが影響を与えることがあります。同じ色でも、気分がよいと理想的に見えたり、みんながよくないと言うと理想から乖離して見えたりするというのは往々にして起こることなのです。

それゆえ第三者の客観的な視点からの見解は重要です。まして、共同制作者である藤原氏の意見ですから、長澤氏の心証に与える影響も少なくないはずです。

 

強力助っ人「ええんちゃうの」がわがチームに加入しました。こいつはたいへん心強い存在です。穏当に自分の意見を表明しながら、長澤氏の背中をいい感じにYES方面に押す、絶妙な働きをしてくれます。関西弁なのも意見の押しつけがましさを緩和しながら心の隙間に入り込む効果を発揮しています。絶妙です。

 

(いいぞ、藤原!)

私は思わず心の中で叫びました。

「ええんちゃうの」の登場によって、長澤氏にYESと言わせることができるかもしれません。

(その調子でもっと言え。あと二言、三言うまく背中を押してくれ……)

 

 

 

「綺麗に出てるやん」

 

おおぉぉ!

 

来ました。

ついに来てくれました。

現役メジャーリーガー「綺麗に出てるやん」です。

力強いストレートで攻める「綺麗に出てるやん」です。

まさか、あの最強助っ人までわがチームに加わることになるとは! 私は夢を見ているのでしょうか。

「ええんちゃうの」と「綺麗に出てるやん」のドリームチーム結成、もう長澤氏も落城寸前でしょう。

さすが藤原ひろのぶ、見込みのある男です。将来有望、伸びしろ抜群。娘を嫁にやってもいいかもしれません。

 

さあ、藤原よ、ラストピース「ええ本になったやん(ニコッ)」で長澤にとどめを刺すのだ!

 

 

 

「どやろ?」

 

エエェ!?

 

……なんなんでしょうか、この男。あと一歩というところで、意味不明な供述を始めました。

「どやろ?」……ほぼ放送禁止の3文字です。

ここに来て、ラスボスにつけ入る隙を与えてどうすんの?

ラストの一撃は「ええ本になったやん(ニコッ)」しかないではありませんか。

藤原「ええ本になったやん(ニコッ)」、長澤「そうね(ニコッ)」で、俺が首をすくめて微笑んだところにエンドロールが流れてくるんじゃねえの?

最後の最後に「どやろ?」と問題提起って、どういう了見よ?

娘を嫁にやってもいいと言ってしまったことは早々に取り消させていただくとしましょう!

 

 

 

私の胸裏の咆哮はもちろん、藤原氏の言葉すら聞こえているのかいないのか、長澤氏は無言で本文を眺め続けます。

 

そして、沈黙が破られます――。

 

 

「……まあ、いいかなぁ」

 

ついに、ついに、OKが出ました。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 

長澤氏からひったくった本文用紙を、にわか雨にたたられた露店の古物商のごとく高速ロールで巻き上げた私は、早々に喫茶店をあとにしました。

 

こうして私は『買いものは投票なんだ』という本作りのレースにおいて、ようやくゴールテープを切ることができたのです。

 

しかし、その翌日、人生という長い旅路において、ゴールとはすなわち次なるスタートにすぎないのだと気づかされることになるのです。

(つづく)