ひとはなぜ食べるか?

倒産する出版社に就職する方法・第69回

 

3マス戻ります。

突然ですが、連載第65回に戻ります。あなたのせいではありません。「3マス戻る」のマスに停まったから仕方ないのです。人生にはそういうこともあります。気にしないでください。で、「人は食べなくても生きられる」と宣言した山田鷹夫氏との新潟県での打ち合わせシーンです。2004年です。

 

 

「食べない」とはいったい、どの程度食べないのか。これから『人は食べなくても生きられる』と宣言する本を作るにあたって肝要なポイントです。

山田氏は、コーヒーもビールも飲むし、アイスだって食べると白状しているのです。具体的にどの程度食べ、あるいは食べないかを詰めないことには話は始まりません。

「決まった時間の食事というのはもうまったくとらなくなった」

「たまには何か食べるということですか?」

「うーん、これは表現が難しいな。腹が減って仕方ないから食べるんじゃないんだ。癖というか暇つぶしというか、とにかく手持ち無沙汰で何かをつまむっていう感じかな」

「暇つぶし?」

「そう。精神が爽快じゃないと、何かを口にしたくなるんだ。精神が澄んだ状態のときは、なんにも食べなくていい。なんというか、心や体が濁っていると、やっぱり何かを食べたくなる。自分を誤魔化すみたいに食べてしまうんだ」

 

――食べるのは、自分を誤魔化すため――

目の前の人物が本当に「不食」で生きているかどうかは別にして、なんだかとても重要なことを言っている気がします。

 

「それじゃあ、固形物を完全に何もとらないわけではないんですね? 食べる頻度はどのくらいですか?」

「コーヒーだけの日もあれば、味噌汁飲んだり、漬物かじったりする日もあるよ。今、母親と同居していてね。母親はふつうに食べるから、食卓につけば目の前に彼女の作った料理がある」

「それに手をつけることもあるわけですか?」

「そうだね。母とはとりたてて仲がいいわけじゃないけど、食卓につけば、彼女の作った料理に箸をつけることもある。そうすれば、母は喜ぶからね。食べないってことは拒絶なんだよ。だから、母とのコミュニケーションとして食べるという感じかな」

 

――食べるのは、コミュニケーション――

なに、言い訳してんだよ。そう思う人もいるかもしれません。

しかし、山田氏が語ることは、「食べる」という行為の本質を言い当てているのかもしれない。そんな気がしてきました。

 

「今はそんなところだな。だけど、完全に食べなくても生きていけるだろうということは実感している。きっと大丈夫なはずだよ。これはいつか自分の体で完全に証明してみせたいとも思ってるよ」

 

コーヒー、ビールなどの飲み物をはじめ、同居している実母とともに食卓につき、味噌汁だの漬物だのを口にすることもある。それも少なくない頻度で。

ここだけ切り取れば、目の前にいる人物を嘘つきと断じられるのかもしれません。「不食」じゃねえじゃん、と。

私は結局、不食の実現度については確認することができませんでした。食べているか、食べていないかでいえば、「食べている」。

ただ、わかったことがあります。自らを飾ることも、隠すことも、大きく見せることもしない、この人物の率直さです。怪しすぎるけど、信頼には足る。これから一緒に本作りに取りかかるにあたり、新潟まで出向いた収穫としては十分ともいえるでしょう。

 

「ひとはなんのために食べるんだと思う?」

 

……。

 

話が一段落ついたところで、なんかすごい問いかけをしてきました。

ヒビの入っていないほうのレンズ越しにその右目が射抜くようにこちらを捉えます。

 

「それは……生きるために食べるのだと思いますが……少なくとも私の場合は」

 

こんな当たり前すぎることを言うだけなのに、自分の答えに自信を持てなくなっているのはなぜでしょう。

 

「ホントにそうかな?」

 

ヒビ割れた左レンズが鈍く光りました。不敵です。不敵すぎます。

(つづく)