三五館シンシャ

あの話を聞くまでは

倒産する出版社に就職する方法・第50回

 

 

「価格はどのくらいですか?」

私は印刷所の担当者にストーンペーパーの値段を尋ねました。

 

書籍に使用する用紙は、もともと原紙と呼ばれる大きなサイズから切り出されます。たとえば四六判と呼ばれるサイズの原紙は788ミリ×1091ミリの大きさです。みなさんのイメージしやすいところだと、拘置所の隅っこにあるトイレの広さくらい。畳半畳ほど。そう、だいたいそんなサイズ感です。

で、この大きな紙から、みなさん(未決囚)がそのトイレに腰掛けながら手にする一般的な単行本(四六判・188ミリ×130ミリ)だと、32枚分が切り出されます。

私が問うたのは、この原紙1枚あたりの値段です。

用紙の値段にもピンからキリまであり、通常の書籍に使われるのは当然、手ごろ、いわばキリのものです。

ただ、ストーンペーパーですから、ある程度ピンのほうであろうことは想定済みです。

覚悟はできているのです。さあ、言ってごらんなさいよ。

担当者は言いにくそうに、ストーンペーパーの1枚当たりの単価を口にしました。

 

!!!

 

覚悟はしていました。

覚悟はしていましたが、まさかここまでとは……。ピンもピン、ピンの先っぽ、ピンピンのところです。鉛筆なら削りすぎ、エッヂ利きすぎです。

もはやこれは紙の値段ではない。石の値段なのです。

 

 

 

ギャテイ・ギャテイ・ハラギャテイ・ハラソウギャテイ・ボヂ・ソワカ……

 

電話口で耳にした価格に邪気を感じた私は真言を唱えながらストーンペーパーに重石をくくりつけ心の奥深くに沈めこんだのです。

成仏しろよ。もう二度と浮かび上がってくんじゃねえぞ。

こうして、ようやく私の心は平静を取り戻しました。

 

 

その後も折りに触れ、藤原ひろのぶ氏に次作の話を向けるたび、「ストーンペーパー」という言葉が持ち出されました。

そのたびに私は心中では真言を唱え、表面上では「なるほどなるほど」「検討しましょう」「よく考えてみます」の3文をうまく組みかえ、難を逃れてきました。

これでなんとかなるはずだったのです。あの話を聞くまでは。

 

 

 

12月15日、国立で行なわれた個展会場での講演でした。

会場は30人の聴衆でいっぱいになり、私はその最後方に腰をおろし、藤原氏の話に耳を傾けていました。

「EARTHおじさんが困っていること」と題された講演も終盤に差しかかり、「おじさんが困っていること」の本当の答えが明かされます。そして、講演を〆るにあたり、藤原氏は会場を見渡しながら、こんな問いかけを始めたのです。

 

「自分ひとりが行動したって、何も変わらないと思ってしまいがちだけど、そんなことはないんです。一人ひとりの行動って本当に大きなことなんですよ」

 

なるほどなるほど。30名の聴衆とともにうなずく私。

 

「だから、今回、僕の話を聞いて、もし何か感じるところがあるのなら、身の回りのことからでいいので、少しだけ変えてほしい。急にしなくてもいいんです。無理してしなくてもいいんです。少しでいいんです。少しだけ何かを変えてください」

 

そうだそうだ。30名の聴衆とともに納得する私。

 

「でもね、……なんにもしないのは無しですよ」

 

その刹那、藤原氏の視線が、30名のいちばん後方にいる私を捕らえた。

 

「なんにもしないのだけは無しです」

 

藤原氏が同じ言葉をもう一度繰り返した。

 

「ストーンペーパー、使えるよね!」

 

藤原氏が声を張りあげ、唐突に最後方の私に問いかけた。

 

「ストーンペーパー、使えるよね!!!」

 

30名の聴衆がいっせいに後ろを振り返り、私を見つめながら、声を合わせ同じセリフをリフレインした。

 

「い、今やろうと思ってたとこ……」

 

突然のことに虚をつかれた私は、ようやく小学生の言い訳みたいなのを絞り出した。

 

 

 

どこからともなく湧き上がる拍手。

ふと我に返ると、すでに講演は終了し、来場者は思い思いに帰り支度を始めている。

誰も私のことなど注目してはいない。

私は夢を見ていたのだろうか。

身支度を整え、辞去する旨を伝えると、藤原氏は何も言わずに私の手を固く握った。

(なんにもしないのは無し、か。……よし、やってやろうじゃねえか)

私は決意を固める。運命はこうして決まる。

(つづく)